シン・ウルトラマン | 山本耕史と和解した

うーん…。 おもしろくないというより、色々とアウトなのではという気がしている…。

まずはお話の構成。
ネロンガ、ガボラ、ザラブ星人、メフィラス星人、ゼットンが出てくるわけですが、単純に1つの映画の中で敵を何度も入れ替えるのは難しいよなあと。そのあたりは『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』がうまくやっていて、怪獣が入れ替わっても全てはギドラの責任ということで生まれるカタルシス。それに対して『シン・ウルトラマン』は各パートのつながりが薄くて、各話30分完結のテレビシリーズならいいのだろうけど、映画には向かない作りだなあと。
後半になるにつれ、アクションから政治寄りになるし、地球人に技術力を見せつけて不平等条約を結ぼうという似たような構成がザラブとメフィラスで連続するしで全体的にアンバランス。ゼットンはサイズ的にアンバランス…。
人間ドラマ的にも斎藤工と長澤まさみの間で繰り返される「バディ」という言葉に集約されるように、感覚的に理解できない形而上学的なやり取りが多くて、ゼットンの幾何学的なデザインがそれを象徴しているのかなと思ったり…。

ここまでは往年のテレビシリーズを映画でリメイクするのってやっぱり難しいよねって話で済むのだろうけど、物議を醸しそうなのは長澤まさみ周りの撮り方ですよね。 気合いを入れるときの尻叩きで序盤から違和感はあったのだけれど、中盤の巨大化のあたりでこれはないんじゃないかなという気持ちに。
大きさを意識させるカメラアングルなのはわかるけれど、スカートを履いた女性を見上げるように撮りますかと。被写体はゴジラではないわけで。 原典のウルトラマンにも女性隊員の巨大化はあるけれど、長袖長ズボンの制服なんですよね。
これ以外にも作り手の性癖みたいなものを感じてしまうセリフやカメラワークというものが多々あって、大丈夫かな?と思った次第。私の心が穢れているだけかもしれないですが。

色々と悪いところを並べてしまいましたが、メフィラス星人を演じた山本耕史は最高ですね。一番キャラが立っていた。
私事ですが堀北真希のファンでして、結婚が発表されたときは「何で山本耕史…?」といったショックを勝手に受けていたのですが、この映画で山本耕史と和解することができました。

全体的には気を取り直して『シン・仮面ライダー』に期待しましょうという感じですが、どうなんでしょうね。顔のアップが多い映画って何かしら問題を抱えたものが多いような気がしていて、『シン・ウルトラマン』もその系譜。予告編を見ると『シン・仮面ライダー』も顔アップが多そうで心配…。

竜とそばかすの姫 | 細田守の『美女と野獣』

竜とそばかすの姫

全世界50億人が集う仮想世界<U>で繰り広げられるドタバタ劇。
ティザーを観たときから私の頭の中では<U>は『サマーウォーズ』の仮想世界<OZ>の亜種という固定観念が離れず(実際、身体の情報を反映するという機能が追加されただけ?)、本編を観る前から<U>のシステムはわかっているよと思っていたくらいだけれど、初見の人にもわかりやすくするためか、<U>について割としっかりと時間を使って説明される。

そう、しっかりと。

『サマーウォーズ』から10年。SNSが浸透して、仮想世界も間近になっているわけで。
それなのに、『サマーウォーズ』以上の時間を使って仮想世界<U>を説明されて、くどく感じてしまったのは私だけでしょうか。
仮想世界では現実の人間の裏の顔が垣間見えるなんてステレオタイプな話をされても、そんなことはわかっているよと叫びたくなってしまう。
序盤はそんなふうな説明パート。YOASOBIの幾田りらの演技が救い。

中盤はタイトルからも、メインビジュアルからも想像できる『美女と野獣』パート。
新海誠がジブリを持ち出した『星を追う子ども』のような印象。
「野獣」に対する「美女」の感情が何なのか、いまいちつかみ切れないのが、さらにこのパートを難しくしているような。 竜の正体を主人公の幼なじみにミスリードさせておきたいという意図があるからか、このパートが恋愛なのか、母性なのか、はっきりしない宙づりのまま進んでいく。

おもしろくなってくるのは終盤から。学校のはみ出しものと、学園のマドンナのコミカルな告白のシーンから。
急ぎ気味の伏線の回収。
川に飛び込んだ母親を追いかけようとした幼い主人公を引き留めたのは、幼なじみの小さな手。その幼なじみが今度は主人公の捨て身の決断に対して、背中を押してくれるというのは、守られる側の主人公が守る側に回ったという成長を象徴しているようで、悔しいけどウルっときてしまった。
とはいえ、『サマーウォーズ』みたいな危機感を感じない。向こう側に生身の人間がいるとはいえ仮想現実の世界でのことだし、身に危険が迫っているのは主人公たちのほうではないし。
自分の想像力というか、自己投影能力の限界を感じる次第。
そう考えると『サマーウォーズ』はよくできていたなと。仮想現実のドタバタを無理矢理にでも現実世界に持ち込み、おばあちゃんの唐突な退場で死を身近に意識させた上で、衛星の落下なんていう強引な舞台装置で決着をつけたわけで。

『サマーウォーズ』と『竜とそばかすの姫』を見比べるのが、いちばんおもしろいかもしれない。
仮想現実の出来事を観客に主観的に意識させるためにはどうすればいいか。 いや、たぶん10年もすれば、何の舞台装置もなく仮想現実を現実世界に投影できる世代が多数になってくるのだろうけど。

ゴジラvsコング | どちらを勝たせよう?

<レンタル>ゴジラvsコング(字幕版)

『キング・オブ・モンスターズ』の続編。
モンスターバースシリーズの4作目にして二大ヒーローがぶつかる。

ヒーロー同士の戦いで製作者の頭を悩ますのはいったいどちらを勝たせようかということだろう。コングがゴジラの熱線で丸焼けになっても、ゴジラがコングの戦斧で一刀両断にされても、必ずどちらかのファンを失ってしまう。
そのせいか、『キング・オブ・モンスターズ』で偽りの神たるギドラのBGMに般若心経を使ったきわどいまでの振り切りはない。ゴジラにもコングにも華を持たせよう終始忖度し、その結果、話の展開に無理が生まれているような。
ゴジラとコングのどちらを勝たせようかという悩みへの答えが、メカゴジラという共通敵というのは、あまりにデウス・エクス・マキナすぎやしないかと。

戦闘シーンは迫力あっておもしろいけど。
水中での戦闘なんて、特撮じゃ絶対にできないわけで、ハリウッドのCGあってこそ。
ただ、それ以上に話の流れが気になってしまった次第。

HELLO WORLD | 物語のブロックチェーン?

HELLO WORLD

HELLO WORLD

  • 北村匠海
Amazon

脚本・野崎まどの2019年公開の映画。

2027年の京都に住む主人公が、10年後の2037年から来たという自分自身に出会い、3ヶ月後に訪れる交際相手の死を宣告され、それを回避するために奮闘するという、よくあるタイムトラベルもののストーリー。
ただし、この2027年の京都は歴史保存を目的に造られた「アルタラ」と呼ばれる装置内の仮想世界であるというのが普通のタイムトラベルものと違ってややこしいところ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『マトリックス』がいっぺんに来た感じ。ちなみに映画冒頭、鳥の羽が京都の上空を舞うシーンは『フォレスト・ガンプ』。

過去を変えようとするタイムトラベルに歴史の修正力が働くように、恋人を救おうとする主人公の行動にはアルタラの自己修復システムによる邪魔が入る。過去や未来との整合性をとるために。
ここで私は違和感に苛まれる。
アルタラは記録装置じゃないの……?
記録装置であるなら、単にデータを保存しているだけなら、ある一時点でのデータが変更されたところで、過去や未来のデータに影響がでることはない。各時点でのデータは独立しているのだから。
どうやら序盤にあったアルタラの説明を聞き間違えていたようで、こいつは「記録」装置ではなく「記憶」装置で、Wikipediaの記述をみると、過去の京都をシミュレートしているらしい。

歴史を保存するという目的の装置で、なぜ現実との誤差を避けられないシミュレーションという手法をとっているのか疑問。さすがにすべてのデータを保存する記録容量は確保できずに、何かしらのイベントだけを保存し合間はシミュレートして補完という方法をとったのだろうか。
どこかのデータが改竄されたとしても、過去と未来の連続性から判断して修正を入れるとか? なんだかブロックチェーンっぽい。因果やストーリーを理解できる高度なAIが必要だけど。
そんな修正機能を導入するためには、何が一番あり得そうな世界かを判断するために複数のシミュレーションを走らせる必要がありそうで、そうなるとやっぱり愚直にデータを集めて保存したほうが楽で確実で安上がりなのでは……?
待てよ、この複数のシミュレーションというのは、映画のエンディングからして正解……?

物語とは別として、頭の体操になる映画。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

シン・エヴァンゲリオン劇場版

テレビシリーズから四半世紀。
『Q』で観客に「新劇場版でも終わらないのではないか」という絶望を与えて放置すること9年。
とっちらかった話をどう回収していくのかという不安と期待で劇場に足を運んだけれど、事前の予想を嘲笑うかのように、開始早々に新しい舞台設定でさらに散らかしていく。

ゴルゴダオブジェクト、アディショナルインパクト、エヴァンゲリオンイマジナリー、etc.
終盤になっても尽きることのない新語の数々。まるで、作品の中の単語ひとつを切り取って、「考察」という名前の妄想を膨らませていたこの25年に対して、そんなものは意味がないと言い、別れの言葉としているかのよう。

対して、登場人物の心理描写や希望の示し方はこれまでの何よりも丁寧で、本当にこのシリーズが終わってしまうのだなと感じさせる。
急激で最後までうちにこもって受動的だったシンジ君が一歩を踏み出し、ゲンドウを諭す姿を見ると、姿は25年前と変わらぬ14歳でも、大人になったのだなと感じてしまう。

旧劇と同様に綾波は巨大化するし、アニメの絵コンテ回を思わせる演出もある。もともとの公開予定が2020年で、それから半年以上の間があったわけだから、時間がなくて絵コンテになったわけではあるまい。
今までを否定するでもなく、なかったことにするでもない。それが庵野監督の答えなのだと思ってしまったら、不思議と涙腺が緩み……。

結末は旧劇と似たようなものなのに、アレを初めて観たときの虚無感のようなものはなく、充実感だけがある。

この違いはどこにあるのだろう。
これが大人になるということなのか。
今の年齢で旧劇を観ていたら、同じように感じることができていたのだろうか。 違うだろうな。
これまでの25年がなかったら、造り手はこんな作品を作ることはできなかっただろうし、受け手もこの作品をこんな気持ちで受け取ることはできなかっただろうな。

TENET | 唯一無二の時間遡行

TENET テネット(字幕版)

感想

クリストファー・ノーラン最新作。
またとんでもないものをこの人は作りおった…

テーマは「時間遡行」。
『インセプション』での夢の中での時間の引き延ばしであったり、『インターステラー』のウラシマ効果だったり、『ダンケルク』の強引な時系列の引っかき回しであったり、ノーラン作品と「時間」は密接に関係してくる。
そこへ「遡行」となれば『メメント』を思い浮かべるけれど、今回は次元が違う。
ノーラン作品どころか、『ドラえもん』なり、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なり、今までのタイムトラベルのイメージとも一線を画す。
古今東西、ある「点」へ向かっての時間遡行は数多くあった。1985年から1955年にタイムスリップするタイプ。1955年という「点」に行き着いた後は、時間は今までと同じ方向に流れていく。新聞の日付や周囲の服装や言葉遣いの「ジェネレーションギャップ」に慣れてしまえば、いつもの生活と変わらない。
それに対してこの『TENET』は時間遡行の過程を描く。上の例で言うなら、1985年から1955年までの「線」を逆再生のフィルムのように辿っていく。そんな現象、考えるだけでも混乱するけれど、『TENET』の画面内には時間順行で動く人間と、時間逆行で動く人間が入り乱れた上で、ドラマが成り立っている。
「点」へ向かう時間遡行は数あれど、その過程をプロットにして、さらには一級のエンタメとして映像化したのは初めてでは… こんな観客を混乱に叩き込むことが予想される映画、普通なら誰かが止める… 
プロットどうなってるんだ? どうやって撮影しているんだ? と映画の裏側が気になって仕方がない。
時間遡行をしている人たちの動きが心なしかぎこちなくみえますが、これたぶん、俳優たちに後ろ歩きさせてますよね…

そんな感じで撮影技法に極振りしたような作品で、ストーリー的には無機質。
何より最後まで主人公の名前が明かされず、クレジットにも「Protagonist=主人公」と記されるだけ。こういうことをするのは、主人公ではない別のことに焦点を当てたい場合か、「これは万人に当てはまる物語ですよ」と語りかける場合くらいしか思いつかない。間違いなく後者ではないだろう。

とはいえ、ストーリーの弱点なんて補ってあまりある衝撃の映像体験。というより、ここにストーリーを足されたら情報過多で私の頭の処理が追いつかない。
「この10年で最高の映画体験」という宣伝文句は誇大すぎやしないかと鑑賞前は思っていたけれど、「最高」かどうかは個人が決めるとして、唯一無二の映画体験になることは間違いない。

追伸:飛行機のシーンについて

映画の山場のひとつ、飛行機を倉庫に突っ込ませるシーンについて、パンフレットにおもしろいことが載っていたのでメモ。

このシーンの撮影はもともとミニチュアと視覚効果を使って撮影される予定だった。(中略)だが驚いたことがあったと、エマ・トーマスは打ち明ける。「試算してみたら、ミニチュアを作り、内観のためにフルサイズのセットを組み立てるよりも、引退した飛行機を購入した方が、費用対効果が高いことがわかったのよ」 p33

ノーランのことだから、ホントにボーイングを突っ込ませたんだろうなとは思っていたけれど、経緯が想像の斜め上。

SF映画のタイポグラフィとデザイン | わかりやすい未来の作り方

SF映画のタイポグラフィとデザイン

SF映画のタイポグラフィとデザイン

SF映画ファンに話題の大型本。
SF映画のワンシーンを取り出して、これでもかと掘り下げる。
フォントにフィーチャーした本だと宣伝されているけれど、掘り下げの対象は書体だけに留まらない。映り込むアイコンであったり、色であったり、文字列であったり……

この本を読むと、普段何気なく観ているSFが、細部にいたるまで計算されてデザインされていることを実感する。
そんな細かいところまで気になったことがないという人が大半だろうけれど、それこそビジュアルデザイナーの仕事が成功している証。
映画の解析の合間に挟まれるビジュアルデザイナーたちへのインタビューで彼らが口を揃えていうのは、デザインは重要だが観客がストーリーから気を逸らしてしまうようなものであってはならないというもの。
科学的な正しさと、観客へのわかりやすさの間でバランスをとらなければならない。 気が散らず、混乱しないものでなくてはならない。

その例として出てくるのが、SF映画におけるモニターの表現。『2001年宇宙の旅』に出てくるiPadのようなフラットパネルディスプレイでも、『ウォーリー』に出てくる大型空中ディプレイでも、モニターに細かい横線が入っている。
これはブラウン管の「走査線」を表現したのが始まりなのだけれど、現在主流の液晶画面でこのような線が入ることはない。未来のモニターにも走査線が走ることはないだろう(おそらく)。
そんなことは百も承知の上で、なぜSF映画のデザイナーたちがモニターに懐かしの走査線を走らせているのかといえば、それが観客にとってわかりやすいから。走査線の入った粗い映像を観れば、観客は瞬時にモニターの映像だと理解してくれる。
この話を読んだときなるほどなと感心した。


デザインの話を少し飛び出して、教訓めいたことも。

人類が月へたどり着いたあと、すなわち70年代前半に、NASAを含めてありとあらゆるものの予算が削減されはじめ、何が可能となりうるかではなく、何が可能かという時代になってしまった。そして想像力が失われた。 (中略)1972年ごろから、そして80年代全体を通じて、全部がクリップアートみたいになってしまう。(中略)「これはすごいアイディアだ、どうやったら実現できるか考えよう」ではなく、「予算とスケジュールを決めて、それに合わせたアイディアを出してくれ」になってしまったんです。わたしたちは元々の、未来志向の原理に立ち戻る必要があります。 p220

これはピクサーのデザイナーへのインタビューの抜粋。
まず始めに予算とスケジュールがあって、それに対してベストを尽くすという方法は、映画だけでなく社会全体に広まったやり方。コンスタントに結果を出すのに適したやり方なのだろうけれど、これで未来が作れるとは思えない。


フォントだけでなく、デザインの本としておもしろい。もちろんフォントの話は多いのだけれど。
この本を読めばEurostyleを使いたくなること必至。ただ残念ながら標準で入っていない。代替としてFuturaを使って今後は資料を作成しよう。

SF映画のタイポグラフィとデザイン

SF映画のタイポグラフィとデザイン

Fate/stay night Heaven's Feel III. spring song

劇場版「Fate/stay night [Heaven's Feel]」Ⅲ.spring song

はじめに

Fate/stay night の最終章。 当初、3月末に公開予定だった本作は、コロナの影響をモロに受け2度の公開延期を経た上で待望の公開。
Fateに限らず、春先から公開延期になっていた作品たちがようやく徐々に公開されてきて、私も半年ぶりくらいに映画館に赴いたわけですが、映画館の座席は1つ空け、入口では観客の体温測定、従業員はフェイスガードを装着したフル装備。Fateはチケット売り切れ状態だったけれど、コロナ以前に比べたら最高でも半分の数しか販売できないわけで、その上コストも上昇。
そんな状況でチケット代金はいつもの据え置きで映画館はやっていけるのでしょうか……
チケット料金を2倍にしたとて元通りの収益とはいかないような……

まぁ、そんなお節介じみた心配をしたところで、私にできるのはチケットを買い、楽しむことだけなので感想を。

※ネタバレあり

感想

迫力ある映像も、梶浦節の音楽も、中二病ちっくなキザな演出も文句なし。

とにかく絵が動く動く。
あまりに動き過ぎてどうやって動かしているかと首を傾げるほど。キャラと視点を独立して3次元的に動かすにはどんな絵を描けばいいのか、図画の素養のない私にはわからんのです。同じくufotableの『鬼滅の刃』でも同じようにダイナミックに動かしていたし。CGならできるんだろうけど、どうにもそんなCGじみた感じもしない。
クリエイターの技術なのか、エンジニアの技術なのか私には見分けられない私には、とにかくすんごいとしか言えない。
セイバーオルタ戦は特に迫力があり、日本ではお目にかかれないような大きな地下空洞の中で戦いが繰り広げられるわけですが、そんな巨大空間でもところ狭しと動きまわる。あんなに破壊したら空洞崩れない? これだけ動いたらもう外に飛び出してない? と思うくらいに。そんな小さな心配は、このシーンの迫力の前では無意味。

そしてストーリー。
情報過多なHFルートをよくまとめたなあと関心しきり。原作をやったことがあるけれど、あまりのテキスト量に流し読みしたところがあるのは否めないくらいなので…… 「世界を救うために自分を犠牲にする」UBWの士郎と、「一人の女の子を救うために世界を犠牲にすることを厭わない」HFの士郎の対比が感じられるところとか特にうまく取り出してきたなあと。

とまあ、ストーリーにも肯定的なのですが、一カ所エピローグで引っかかったのでそこのメモ書きを。

※これ以降、特にネタバレ

エピローグについて

HF後に士郎がいなくなり、桜と凜の二人で旅にでている姿が描かれるのですが、最後の最後にヒョイと士郎が家事を手伝っている。
桜と凜の放浪の旅の最後に、人間大の人形と、桜が抱える鳥かごの中の光が映されるので、察することはできるのですが、映画だけだとスッキリしない。
調べてみると、桜と凜が人形を見つける前に意味ありげにすれ違ったモブは蒼崎橙子という『空の境界』のキャラクターらしい。彼女の特技は人間と変わらぬ人形を作ること。
そして、イリヤのヘブンズフィールは魂を物質化する魔法。
桜の抱える鳥かごの中には死闘を終えた士郎の魂が入っていて、それを放浪の果てに見つけた蒼崎橙子の人形に入れて、士郎を蘇らせたということらしい。
……これはTYPE-MOON作品に精通していないとわからない。
原作では士郎の魂を人形にいれて復活させたとは言っているものの、蒼崎橙子の人形であるとは言われてない。ファンの間では蒼崎橙子だろうと言われていた推測が、この映画で確定したことになったわけで、最高のファンサービスなのだろうけど、もう少し説明が欲しかった……。

最後に

Fate/stay night の3つのルートがすべて映像化されたことになり、これで一段落。
同人サークルの作品が20年かけてここまで来たと考えると感慨深いですね。

コンテイジョン | 今ここにある未来

コンテイジョン (字幕版)

コンテイジョン (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

このパンデミック映画が公開されたのは2011年。
「パンデミックはどのように発生し、社会はどう変わっていくのか」

映画が描くパンデミックの発生は、2003年のSARSと、2009年の豚インフルエンザの繰り返し。幸いにもそのときは、局所的な流行にとどまり、こと先進国においてはパニックを起こすような被害はなかった。だから、2011年のこの映画で描かれるアメリカの姿は空想だった。
COVID-19が出現するまでは。

接触感染、物資の不足、病床確保のために体育館に並べられるベッドの列——。
2020年の今、連日ニュースで流れる光景が、2011年の映画でいくつも描かれている。

極めつけはジュード・ロウが演じる記者の存在で、レンギョウが感染症に効くというデマを流し、関連証券をつり上げ、金を儲ける。
今でこそ危機時の「フェイクニュース」に気をつけましょうは当たり前になっているけれど、2011年の段階で警鐘を鳴らしているのは先見の名。この頃は東日本大震災における速報性やアラブの春での有用性など、SNSのポジティブな側面にしかスポットライトがあたっていなかったと思うけれど、当時の雰囲気とは逆行する予言が、その後的中している。

この映画の焦点は「未知の感染症に人類はどう打ち勝つのか」ではなく、「未知の感染症は社会をどう変えてしまうのか」。
だからわかりやすいカタルシスはないけれど、9年後の現在を不気味なまでに言い当てている。
映画はパンデミックが一段落したところで終幕。現実の社会はこれからどう変化していくのだろうか。

コンテイジョン (字幕版)

コンテイジョン (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

1917 命をかけた伝令 | オープンワールド・ムービー

1917 命をかけた伝令 (字幕版)

『パラサイト 半地下の家族』とアカデミー賞作品賞を争い惜しくも逃す。
アカデミー賞受賞直後に日本公開ともなれば、最高の出だしだったのに。
とはいえ、撮影賞と視覚効果賞を受賞した「全編ワンカット」は凄まじい。

一方で、「全編ワンカット」が仇になっている感も否めない。
最前線の仲間へと伝令を届けるため、戦場を駆け抜ける。
『バードマン』のような街中のワンカット映画にはないスケール感がこの映画のウリなのだけれど、その「戦場」に箱庭じみたものをどうも感じてしまう。
歩いて30分のところにドキリとするシーンがあって、さらに30分行くと感情を揺さぶられるイベントがあって——。
それは広大なエリアに放り出されたプレーヤーが途中で飽きてしまわないように、クエストが周到に用意されたオープンワールドゲームのような肌触り。
北米を縦断する『デス・ストランディング』で、アメリカがゲームサイズに縮小されデフォルメされていたように、この「戦場」も映画サイズに縮小され、デフォルメされている。

【PS4】DEATH STRANDING

【PS4】DEATH STRANDING

  • ソニー・インタラクティブエンタテインメント
Amazon

「全編ワンカット」を実現するための編集点の作り方もゲーム的。一度登場人物を画面から外すためにカメラが彼らを追い越したり、足下を映したり——。
『メタルギアソリッドV』のプレイアブルシーンからムービーシーンへのシームレスな移行のようなイメージ(映画好きの小島監督のことだから、もともとは映画の技法なのだろうか?)。
これがどうにも私の中のオープンワールド・ゲーム感を加速させる。

METAL GEAR SOLID V: GROUND ZEROES + THE PHANTOM PAIN - PS4

METAL GEAR SOLID V: GROUND ZEROES + THE PHANTOM PAIN - PS4

  • コナミデジタルエンタテインメント
Amazon

個人的な感想を総括すると、これはゲームのような映画である。
全編ワンカットだからといって、現実に近づいているわけではなく、全編ワンカットにこだわったが故に、ストーリーや設定に違和感のあるところが多少ある。
一方で、ゲームのように楽しい映画である。
どこを編集点としているか、どうやって撮影しているか、想像して観ると楽しい。

アカデミー賞で撮影賞と視覚効果賞は獲得したが、作品賞は『パラサイト』に譲った理由はそこにあるのだろう。