コロナ時代の僕ら | コロナ以前の世界に戻りたいか

概要

新型コロナウィルスがイタリアで広まり始めた2020年2月から、イタリア全土を覆い尽くす3月までの間、『素数たちの孤独』がベストセラーになったイタリア人作家が書き綴ったエッセイ集。

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

感想

一ヶ月も経たないうちに翻訳、刊行のスピード対応。

僕は忘れたくない。 p110

という本文の言葉に表れているように、後から振り返るだけではなく、新型コロナの混乱の中で感じたことをなるべくリアルタイムで残したいというのが、このエッセイ集の目的。

100ページ程度で行間も広いのでさっくりと読めるけれど、洞察は深い。


すべてが終わった時、本当に僕たちは以前と全く同じ世界を再現したいのだろうか。 p109

新型コロナは今の世界のゆとりのなさを浮き彫りにした。
平時に最適化された医療システムはコロナ患者の急増でいとも簡単に崩壊した。満足な検査態勢を敷くことは難しく、データを扱う人員さえ不足している。


なぜもっとベッドを用意しておかなかったのか? 医療従事者を確保しておかなかったのか? 検査機器を設置しておかなかったのか? もっと人員を当てられなかったのか?

そう問いかけるのは御法度だ。
コロナ以前の世界ではこんな事態は予測していなかったし、予測不可能だけれど起こってしまえば致命的な事態に備える余裕はどこにもなかった。
いつ使うのかわからないベッドや検査機器を整備しておく余裕がどこにあっただろう。
いつ出番があるかもわからない人員を待機させておく余裕がどこにあっただろう。
余裕を切り捨て平時に最適化されたシステムを、わき目も振らずにアクセル全開で踏み込んで走らせ続けなければ、生き残ることさえ難しかったのだから。
今回のような非常事態に万全の準備を整えている余裕なんてあるはずもない。


COVID-19の第二、第三の波を乗り越え、ワクチンを開発し、このパンデミックを収束させた後、僕たちはコロナ以前の仕組みを使って、コロナ以前の世界を再興しようとするだろう。
それはある程度まではうまくいく。
COVID-19のような感染症が登場するまでは。

今回のようなパンデミックがそんな頻繁に発生するはずがないと思うかもしれない。
確かに、天然痘、コレラ、ペスト、スペイン風邪、これらの流行を見て見ると100年に1回のペースのようだ。次のパンデミックまで100年もあるのなら、僕らの文明はもう一度くらいは春を謳歌できるだろう。

けれど次のパンデミックは100年も待ってくれるのだろうか。


COVID-19はコウモリ由来、センザンコウを経由して、人間に感染したと言われている。食用のために色々な野生動物を詰め込んでいる中国の動物市場が感染源だとも。
コウモリやセンザンコウ、中国の食習慣や商習慣を責めるのもいいけれど、世界中で似たような状況増えていることに目を向けなければならない。

ブラジルの熱帯雨林の伐採で住処を追われた動物はどこに向かうだろう。オーストラリアの森林火災もそうだ。
住処を追われた動物たちは限られた生息地へと密集し、僕らの知らないところで、今までになかった相互作用を起こしているに違いない。
そこへ足を踏み入れた人間が、未知の感染症に遭遇しない保証があるだろうか。
温暖化による環境の変化と、人類の野放図な消費行動によって未知の感染症とのファーストコンタクトは増えていくだろう。


となれば100年に一度のパンデミックが、10年に一度の頻度で訪れてもおかしくない。
アクセルを踏み続けなければそこに留まることさえ許さなかったコロナ以前の世界が、10年に一度繰り返される急ブレーキに耐えきれるだろうか。

僕はそうは思わない。

ブレーキを踏むことがかろうじて許されている今こそ、コロナ以前の世界を見直して、コロナ以降、どんな世界を望むのかを考えるべきではないか。
コロナ以前の世界の再興を目指すだけでは、同じような危機を遠からず迎える。そんな気がする。

コロナの時代の僕ら

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