地震や噴火の予知について思うこと

草津白根山が噴火したのは先週のこと。 地震や噴火で被害が出ると、気象庁が「想定外」と答えるのは、東日本大震災や御嶽山の噴火からお決まりの光景になっているわけですが、今回は全くケアしていなかった場所からの噴火ということで、いつもより「想定外」というニュアンスが強い。
まるで「十分な測定器を置いていれば予知できた」と言いたげな雰囲気を気象庁なり、TVに出ている専門家の方々から感じてしまって、天邪鬼な私はこう思ったのです。
果たして、これでもかというくらい潤沢な測定器でモニタリングしたとして、地震や噴火の予知はできていたのだろうか、と。

科学といえば、現在の状態を完璧に把握していれば、未来の状態を完全に予知できるというような「ラプラスの魔」的なものを想像する。けれど、現代科学はそんな決定論を100年も昔に捨て去っていて、かのアインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言って批判したにも関わらず、確率論を受け入れることで量子論は発展した。

量子論 増補第4版 (ニュートン別冊)

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ナノメートルよりも小さな領域を扱う量子論と、数百メートルや数キロの規模で動く地震や噴火は空間的なスケールは違う。けれど、地震や噴火といった現象が数十年、数百年、場合によっては数千年というスパンで起きるのに対して、私たちが予知に期待するのは1日先とか、1週間先といった短期的な時間スパン。
時間と空間の違いはあれど、メートルの世界からナノメートルの世界を眺めるのと、数千年の周期から明日を予測することは、相対的なスケールとして同じようなものではないのだろうか。
つまり、どんなに頑張っても予知は不十分で、確率的な答えしか出せないのではないか。私たちの地震予知に関する期待は、原理的に可能な範囲を超えているのかもしれないと、ふと思った次第。

なぜ私がこんなことを思ったのかといえば、TVで受け答えをしている気象庁の職員や専門家がなんだか無理をしているように見えたから。
できないことが自分でもわかっているのに、それを期待されるから夢を壊してしまわないように気を使って答えている感じ。
そりゃ現時点で不可能なことを可能にするように頑張らなきゃいけないのはわかるけれど、原理的に無理であるなら、無理なことを織り込んで、次善の策を考えておきましょう、と。