2020年本屋大賞受賞作。
翻訳小説部門1位の『アーモンド』が「誰もが持ちうる感情を持たない」主人公を描いたのに対して、こちらは「誰もが持ち得ない感情」を持つ主人公ということで、2020年の本屋大賞の国内部門と海外部門の1位はきれいに対照を成す。
『流浪の月』の主人公は女児誘拐事件の被害者。誘拐事件といっても本人にとっては悲劇的なものではなく、むしろ犯人とされた当時の大学生に惹かれていく。
ストックホルム症候群なのでは? と思ったあなたはきっと正しい。
誘拐事件の被害者が犯人に愛情を抱くなんて、客観的にみて異常で、病的なことだから。
けれど、感情というのはどこまでも主観的なもので、客観的に決めつけたところでどうこうできる問題ではない。かわいそうな過去を持つ人と決めつけて、周囲の人間は彼女に優しさや気づかいを見せるけれど、彼女にとってはお節介でしかない。「誘拐」されていた時間こそが至福と感じている彼女には、的外れで自己満足的な周囲の優しさは真綿で首をしめられるような暴力でしかない。
誘拐事件の「犯人」に惹かれていく感情は、誰も経験したことがなく、それを表す適切な言葉もない。
その感情にストックホルム症候群というレッテルを貼るのもいいけれど、この本を読んでしまうと逆に、的外れなお節介をする人間の感情にナントカ症候群という名前をつけたくなる。
それくらいに私は感情移入してしまったわけで、「愛」とか「恋」とかそんなありふれた言葉では表現できない名状しがたい感情をこちらに理解させるこの小説はすばらしい作品だなと。