実力も運のうち | 実力なんてものは存在しない

『ハーバード白熱教室』『これからの「正義」の話をしよう』のマイケル・サンデルが能力主義と格差について語る。

貴族を打ち倒して成立した民主主義。
階級社会がなくなったことで平等な社会が実現されるはずだったのに、どういうわけか格差は広まるばかり。民主主義の盟主たるアメリカで、大統領選挙のたびに格差がクローズアップされ、果ては選挙が終わっても遺恨を残している様子を見るに、格差によりため込まれた不満の限界は近いように思える。

なぜ格差は広まってしまったのか。
数式的な側面から切り込んだのがピケティの『21世紀の資本』であるなら、この本でマイケル・サンデルは道徳的に説く。

彼が問題視するのは能力主義。
「努力と才能で、人は誰でも成功できる」という能力主義の教義が、格差による分断を助長しているという。
努力も才能も能力主義のもとでは、まるで個人のもののように扱われる。特に努力のほうは、個人でコントロールできるものであり、才能がなくても努力で補えるというふうにとりわけ神聖視されている。
けれど、本当にそれが正しいのだろうか。
才能をもって生まれ、努力のできる環境が用意されているかどうかは、本人にはどうにもできない、くじ引きのようなものではないか。それは貴族に生まれるかどうかで運命が別れた階級社会と同じではないか。

能力主義で生まれる格差というのは、階級社会よりもなおタチが悪い。
階級社会では下位階級の人たちは自分の人生がうまくいかなくても、生まれのせいにすることができた。
上位階級の人たちは自分が高い地位にいるのは、生まれのおかげだと知っていた。実力でみたら、自分より優れている人間は何人もいるとわかっていた。
逆説的だけれど、下位階級が卑下することなく、上位階級も謙虚でいられたのが階級社会だった。

一方で能力主義のもとでは、成果はすべて自分のせい。
人生がうまくいかなくなると、それは自己責任。
人生がうまくいったら、私の努力のおかげ。敗残者に対しては努力が足りなかったからでしょうと突き放して当然。そこに歩み寄りはない。
人生うまくいくかいかないかは、突き詰めると運でしかないのに。

そういった能力主義の「勘違い」のもとで、格差と分断が進んでいる。
自分の人生の何か一つでも変わっていたら、今と違う場所にいたと想像できる謙虚さが今の能力主義には足りていない。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ではたった一発のパンチでジョージとビフの関係性は逆転するわけで。
DNAのたった一塩基でも別のものに置き換わっていたら、別人になっていたわけで。
どれだけ頑張ったところで自分の人生は偶然の産物だということを身に沁みて感じていないかぎり、格差をなくすための制度を導入したところで、何かしらの遺恨を残すだけなのだろうなと。