死にがいを求めて生きているの | このホラーのテーマは生きがいと多様性です

あらすじ

誰とも比べなくていい。
そんな優しい言葉を囁かれて育った平成の若者は、
生きがいを見出せず、死にがいを求めて生きている。

死にがいを求めて生きているの

死にがいを求めて生きているの

感想

作者は『桐島、部活やめるってよ』の朝井リョウ。
『何者』を読んで以来、私はこの人をホラー作家なのだと思っている。
就活の居心地の悪さと、SNSに没頭する人間の気味の悪さを描いた後で、そういう傍観者の冷めた視点で眺めているあなた(≒読者)だって、似たように薄気味の悪い存在だと切り返す。
SNSという実体のない亡霊によって引き起こされる気味の悪さと驚きは、ホラーと読んで差し支えない。

何者 (新潮文庫)

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そしてこの『死にがいを求めて生きているの』の読み味は、その『何者』に近い。
南水智也と堀北雄介という二人の幼馴染と関わる5人の人間の、「生きがい」にまつわる物語。
はじめに登場するのは日々をルーティン的に過ごす看護師。生きがいを持たない彼女は日々の自分の行動を「自動的に運ばれている」と表現する。毎日、いつのまにか会社についている自分には、とてもぴったりくる言葉。

時間割の通りに歩いていればよかったあのころは、自動的に運ばれているならば運ばれているでよかった高校三年生のあのころは、まだ、ゴールがあった。遥か彼方ではあったけれど、その回転には高校卒業という名の終わりがあった。だけど今は違う。自動的に運ばれていった先に、何があるのかわからない。 p31

中盤に登場するのは学生運動に精を出す大学生。自分の意見を主張することに生きがいを見出している彼は一方で、主張しみんなの注目を集めることができるのであれば、意見の中身なんてどうでもいいという自分に気づいている。目的と手段が逆なのだ。
学生運動なんていう大それたことでなくても、この感覚を抱いたことがある人は多いはず。
例えば、私たちは思い出をシェアするためのSNSだったはずなのに、いつの間にかシェアするために思い出作りをしている。

そして最終盤、事故で植物状態になった南水智也の視点で進む物語はまさにホラー。
彼は五感のほとんどを失っているが、聴覚だけは生きていて、寝たきりの状態で外界を認識している。
彼の幼馴染である堀北雄介は、智也を見舞うことに生きがいを見い出す。
それまでの物語の中で、ことあるごとに「生きがい」を変化させている雄介を見せられている私は、その状況に、自分の身体が何かの代替物として扱われているような気味の悪さを感じる。

そんな感じで、生きがいが全面に出てきている作品だけれど、物語の裏にあるサブテーマについても触れておきたい。
それは「多様性」と「対立」だ。
朝井リョウといえば、平成に生まれ育ったゆとり世代ど真ん中の作家。
ゆとり世代がどんな教育を受けてきたかといえば、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と言わんばかりに、学校から競争が取り払われていった世代。
定期テストの順位の貼り紙がなくなり、運動会も順位がつけられることがなくなった。
結果的に多様性は生まれたけれど、みんな好き勝手な方向に飛んでいって自分の殻に閉じこもることができるようになったから、競争=対立を解決することが下手になった。 多様性が増せば対立が生まれるのは当たり前で、その対立を解決した先にこそ、新しい繋がりや価値が生まれるはずなのに、私たちの世代はそれが難しい。

人と繋がることができない多様性なんて、孤独とどう違うのだろう。

平成の終わりに発売されたこの本は、その時代に生まれ育った世代の感覚をよく表現している。

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