プラネタリウムの外側 | どこまでも続く世界

あらすじ

一般的なコンピュータとは異なった動作原理を持つ、有機素子コンピュータ、IDA-XI。その内部では世界が構築され、会話シミュレーションが実行されていた。IDA-XIの中で構築された世界は、現実と何が違うのか。そもそもこの現実が、シミュレーションではないとどうして言えるのか。恋愛と世界についてのフラクタルな連作集。

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)

感想

『未必のマクベス』の早瀬耕の作品。デビュー作の『グリフォンズ・ガーデン』の続編という位置付けの短編集だけれど、独立して読んで問題ない。以下、それぞれの短編に対して感想。

有機素子ブレードの中

展開も内容も、『グリフォンズ・ガーデン』に近い。一番の違いは、最初からこの世界がシミュレーションであると気づいている登場人物がいること。
登場人物の名前が何かと関連づけられていたり、やたら出会いがドラマチックだったりすることを「ランダム性がない」としてシミュレーションだと指摘するあたりが、小説という媒体に対しての皮肉に感じられる。

「駄目だっ。そこは設定していない」 p60

で終わるラストは、プログラマーの悲哀だろうか。

月の合わせ鏡

『グリフォンズ・ガーデン』の中にあった「合わせ鏡の鏡像は無限か」というテーマを発展させた作品。 IDA-XIで再現された合わせ鏡。そこにはいくつもの像が投影されていて、今と過去が共存する。
その中の像の一つが自我を持ち始めたら? 過去の像の一つに自分が取り込まれたら?
ホラー風味の効いた作品。

プラネタリウムの外側

表題作。元恋人で友人である川原圭を列車に轢かれた佐伯衣理奈は、友人の死の真相を知るべく、IDA-XIの中に友人の人格と、事故当日の世界を再現する。
友人の死は自殺だったのか、事故だったのか。そして、自分の行動によっては友人を救うことができたのだろうか?
それを検証するべく、佐伯衣理奈は「その日」を繰り返すのだけれど、その描写にドキッとさせられた。
IDA-XIの性質上、再現された川原圭は同じ言葉をかけられても、返答が一意に定まらない。一方で佐伯は、問題の日を再現するために同じ言葉を、機械的に何度も繰り返す。シミュレーションと人間の関係が、それとなく逆転している。
これは意図された描写なのだろうか。

忘却のワクチン

リベンジポルノを題材にした作品。
悪意によって広まった過去を、どうすればなかったことにできるのか。作者の答えはシンプルだ。記憶装置の情報を改ざんできれば、それが事実になるでしょう、と。

百GBを超える記憶容量をスマートフォンで持ち歩いて、家に帰れば、テラ・サイズのパソコンがある。ノートを取らずに板書をスマートフォンで撮って、講義を受けたつもりになる。友だちと旅行やゲームセンターで写真を撮れば、肌の色や目の大きさを補正して保存する。人間は、脳という記憶装置を外部化して、自分の記憶を軽視していると思わないか? p212

よくもまあ、これだけの物語を書く人が、20年も沈黙していたものだと、信じられない気持ちで自分はいるのだけれど、もしかしたら、その情報はこの短編で言及されているように、プロモーションのために改ざんされた情報なのかもしれない。

夢で会う人々の領分

この連作唯一の書き下ろしであり、総決算。
現実に人の心を理解し、対話し、感情を植え付けることができるコンピュータが生まれたらどうなるだろうか。
人の行動を操り、戦争をすることだって可能だろう。
新たな脅威のように感じるけれど、よくよく考えるとそうではない。人間だって昔から物語を使って、人を任意の方向に動かしてきたのだから。リーダーシップというものが、コンピュータに代替されるに過ぎない。
連作の一作目『有機素子ブレードの中』に呼応するラストがいい。

「ここは設定しているか?」 p310

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