作者は『伊藤計劃トリビュート』で知った王城夕紀。
後進国が発展し経済格差がなくなり、格差を原動力にしていた資本主義は機能しなくなった世界。無理やりにでも経済を動かすために、政府はオリンピックやワールドカップのようなお祭り騒ぎを連日開催する祝祭資本主義を採用するが、その祭りを標的にしたテロが横行し世界は混乱の一途を辿っている。
そんな社会で「量子病」に冒され世界中を跳躍し続けざるをえなくなった坂知稀(サカチ・マレ)が主人公。存在する位置を確率でしか表せない量子のように、坂知稀は何の前触れも意思もなく、地球上のどこかに突然現れては消えてしまう。
世界を跳躍し続ける坂知稀が、異変の先に見たものは。
感想
出会いと別れの物語。
そう言ったとき、重点が置かれているのはたいてい「出会い」のほうだ。「別れ」は「出会い」を際立たせるための添え物で、物語をキリよく終わらせるための装置だ。
『(500日)のサマー』しかり、『陽だまりの彼女』しかり(もちろん恋愛ドラマに限らない)。
この物語は違う。「出会い」について語られてはいるけれど主役は「別れ」、そしてその先の「再会」だ。
「出会いは神様の意志。でも、再会は人間の意志」
インターネットのようなデジタル技術が普及する前は、出会いと別れがセットであることは当たり前だった。人とのつながりを一期一会で終わらせたくなければ、その人のもとへ出向いたり、それなりの努力をしなければならなかった。
やがてインターネットが普及してSNSが生まれ、人とつながり続けることはそれほど面倒なことではなくなった。家で寝転びながら、遠く離れた友達と会話をすることができるし、SNSのタイムラインをたどれば、たいして親しくない知り合いの夕ご飯でさえも知ることができる。
いつしか「別れ」は消えて、つながり続けることが当たりまえになった。
けれどその「つながり続ける」ことが何かの歪みを生んでいるのではないだろうか。つながるとは混ざりあうことだ。混ざり合っていくうちに、自分と他者の区別は曖昧になってしまう。
格差がなくなりフラットになって混乱する社会のように、自分と他者がフラットに混ざり合った個人も混乱をきたすはずだ。
みんなが同じ。
だから、坂知稀が出会ったマンハッタンの青年のように居場所を見つけられず自暴自棄になったり、自分を定義しようとお祭り騒ぎのテロに参加して自らの存在意義を確認する。
そう考えてみると、失くしてしまった「別れ」こそ、つながり続けることよりも大切なものだったのかもしれない。出会い別れたその先で、何を選択し、どう努力するかが個人を形づくるものだからだ。
「多くのものに出会い、学び、傷つき、いつかこの世界のどこかの片隅に、自分だけの居場所を見つけるのだ。それはな、何にも代え難い、素晴らしい仕事だ。どんなに苦しくとも、やる価値のあることだ」
「量子病」というハードな設定がありながら、ライトでスピード感のある文体で、「出会い」と「別れ」という人間味のあるテーマを突きつけてくる。この本は傑作といっていい。